反日常系

日常派

日記と夢の話

 誕生日を迎え、二十七にもなった。もう十字路の悪魔にすら魂を売りとばすことが出来ない年齢になり、この一年は「あと何日でカート・コバーン」「あと何日でジャニス・ジョプリン」「僕は一体大庭葉蔵のように生きれたかね」と思いながら生きていくのだろうし、結局向こう一年で死ぬことすら叶わず、二十八になれば華倫変の背中でも追い、二十九になればマーク・ボランの背中を追いながら、免許も持ってないのに右折の時目の前にトラックが飛び出してくることを祈るのだろう。トラックに轢かれたって中世ヨーロッパと魔法と拙い文章の世界には飛ばされないだろう。それは惨いような、それでいて救いのような顔をしながら、死後の世界とは未確定であると、確定さえしなければなんだって言える詐欺師の口振りで僕に囁き続けているのだ。損失が確定した時、文句を言おうと詐欺師の方を振り向けばその姿は既になく、僕は尖らせた口元を恥ずかしげに笑みに変え、後頭部を掻くだろう。

 不幸や不運など、書き散らしたいことなど無限にあるが、どうして言葉にすることがこうも叶わないのだろう。そんな悩みを持ってここ数年を暮らしてきた。一時はせめて自分のことでなければ上手に書けるかと思い違いをして、存在しない男や存在しない女が、存在する僕の悩みを代弁するかのような小説もどきを書いていたが、それすらも上手に書けなくなって、いい加減この精神的失語症とも付き合いきれないぞと思って死にたくなる。僕は一体何を求めているのだろうね。何を求めていて、何でそれが満たされるのだろうね。何も求めていないから、文章が書けないのだろう。物語とは求めることであり、それが叶うか否かである。求めない人間の眼前に物語は現れない。気に食わない人間が死ねばいいと思えば、その人間が死ぬ空想ができる。だが、気に食わない人間に対して、さして思うことはない。人間は他者をどうこうしようとする術を持つのか知らん。少なくとも僕はそういった術を持たないようだ。他の人間は持っているんだろうな。自分の機嫌によって相手を傷つければ、相手は離れるか機嫌を取ってくれるかだもんな。僕はわざわざそんなやり方をやろうとも思わないし、出来ないけれど。

 人間なんてと語るには若いとも言えず、孔子が幾つで立ったかを思い出そうにも学のなさ故に口ごもる。自己の憂鬱を語ろうにも、モラトリアムも過ぎれば同じ内容の繰り返しだ。今なら僕は人の感情が全て脳内物質の有無によって決定されるという宗教を立ち上げることが出来る。現代ではそれは科学という名の宗教として既に確立している。

 人を恨もうにも、その感情は長続きはしないし、どうせ時の流れで全てを許してしまう。その癖に相手は無限に昔のことで怒り続けることが出来るように思う。自分は痴呆症のようだ。今を今として生き、未来は確定せず、確定する頃には今の気持ちを忘れてしまう。ただ時が経ち、記憶することも叶わず空白の時間を白に塗りこめ、左手をリストカットのケロイドでピンク色や薄茶色に変えていく。

 人間のあらかたはクズで、その上に真っ当な人間がいて、クズの下にはクズになりたいけどなれない人間がいる。僕はもちろん最下層だ。女を食うには良い顔もよく回る舌も、人生を輝かせるような夢もないし、そもそもちんぽだって勃ちやしない。クズは人と仲良くすることが出来る。だからクズをクズだと気づかない人が被害に遭って被害者面するのだ。僕のようなクズになりたい人間はただただ面白くないだけで、人が寄り付くことはない。煙草を吸って酒を飲んでも、独りぼっちが延々と続く。煙草やら酒やら睡眠薬やら、無頼派が借りてったまんまで返すことのない退廃を、さらに借りパクして過ごしている。

 性的な話でもするか? 勃起不全の癖して。相手を必要としながら、自分の欲求を満たすことだけを考え、その実満たせるとは驚くべきことだよ。僕にはとてもじゃないができない。性的な欲求は躁鬱の躁の時にしかなく、幸いにして今は躁ではないが、ただ、強がりとして口汚い言葉を吐きたい気持ちはある。おい、おまんこ。おい、おちんぽ。このオカマ野郎、エイズにでもかかって死んでしまえ。糞野郎。ファック。

 人とも関わることがないために、恢復しなくても良い憂鬱に、三十九度の浴槽のように心地好く浸かっている。人間、恢復しなければならない憂鬱というのはいつもやってくる。中々、恢復しなくても良い憂鬱とは会えるものではない。人は恢復のために、映画を見たり、音楽を聴いだりするが、そういったものは全て即効性がある為に露悪的だ。今、僕が聴いているのはアルマンド・トロヴァヨーリである。露悪的ではないとは言えないが、即効性がある方の音楽ではなかろう。砂糖が毒なのと同じように、甘ったるい旋律は毒である。僕ができることはせいぜい、そのイヤホンのカナルいっぱいに盛られた甘い毒を、零さないように両耳に突っ込む事ぐらいだ。何ら有用ではない、BGMにしたって使いどころがない音楽を聴きながら、この経験が何ももたらさないことを知っている。そういうものなのだ。恢復しないとは。ただ、薬も塗らず、瘡蓋も掻かず、傷が癒えるのを待っている。

 酒ばかり飲んで、脳味噌が酒で膨れて頭蓋骨にがつがつと当たる。そうした頭痛に悩まされながら、精神的苦痛が肉体的苦痛にすり変わるのを良しとしている。何を忘れたいのかを忘れたい。毎日一リッター以上酒を飲み(これは僕にとって精一杯の退廃の量なのです)、ゲロを吐きそうになりながら布団に横たわり、ズボンが腹部を締付けるために吐瀉物を撒き散らしそうになるのだと結論づけ、チャックを下ろし、ケツを丸出しにしたまま眠っている。死にたいし、死にたくはない。本当のところ死にたくはない。ただ、人に許される手段として憂鬱を託けている。幸せであるとはとてもじゃなく言えないが、たとえ幸せだったら人に好かれるとは思えない。

 僕が許されることはあるのだろうか。許されないのが怖くて、人に阿ってばかりいる。僕の笑顔は人の癇に障るようで、嫌われてばかりいる。憂鬱を人に話す度胸は僕にはないし、たとえ僕相手でも憂鬱を話そうとは思えない。憂鬱を人に話すのは、単に甘えだと思う。甘えだからといって否定的に捉えているとは思わないでほしい。そういうことができる人間は上手く人と関われると思う。そして僕はそういうタイプではない。

 

 睡眠しながらの夢の中で人に好意を持つのは本当に、素晴らしいことだ。好意に理由も疑問もなく、相手の、素晴らしい人という設定を何も考えずに享受する。そして夢の中でその人が笑いかけてくれるだけで幸せな気分になる。そして起きる。夢を理性の中で再構成しようと、書きなれない小説でも書いてみようと試みる。だが、それは僕の力では能わず、失恋の痛みを酒で誤魔化す。僕は夢の中で会った、若い僕の、存在しない同級生にもう一度会うことはできまいかと悩む。陰気で、ライスバーガーとシンデレラが好きで、黒色が嫌いで……そういった些細な特徴は覚えているのに、再構成しようとすると僕の好意に説得力を持たせてはくれない。たしか、睡眠薬を分け合って、浴槽の中に二人きりでぎゅうぎゅうに詰めあい、血管にニードルを刺し、無限(限界が知覚できないのならそれは無限なのです)に血を吹き出させながら、僕達は睡眠するのです。起きた時に僕の腕からはニードルが外れていて、彼女は確かに死んでいる。あまりに冷たい死骸なので、僕は浴槽に湯を貯める。その後、何故か(夢が何らかの欲望の帰結だというフロイト的な考えを僕は信じていないので)彼女の乳房と女性器を切り取り、そこで夢から覚めるのです。誰か、そこまでの好意に説得力を持たせる人間が居たらいいのだが、いくら酒を飲んでも薬を飲んでも、眠りは深くなるばかりで、夢に近づくことができません。

日記

 文章なんて、鼻くそをほじりながらでも、涙と足の裏で書くのでも、結局は見られん限り同じだと思っていたら一ヶ月以上書かないでいられた。文章を書きたいと思う気持ちはなくもないが、日々があまりにも怠けるのに忙しすぎたため、まとまった文章を書くにも読むにも億劫になってしまった。今こうして文章を書くのもさしたる理由なく、ただ酒の赴くままが文章だったというだけである。

 酒を飲むと、僕が酒を飲むスピードが異様に遅いというのもあるが、酔いが回る頃には陽が暮れかけているという塩梅だ。ゲロを吐いたり頭痛がしたりと、そういった細々としたところにくだらない退廃を感じなくもないが、内心はおみくじでも引くみたいに「今はこの結果が出たに過ぎないではないか」と思う。人間が人生で飲める酒量は人によって総量が決まっていて、そのゲージを毎日少しずつ溜めているのだろうが、自分がそのゲージを満タンにするだとか、その後どう生きるだとか、体を壊すだとかの心配は──まだ若いと言って差し支えないのであれば──若さゆえに浮かぶことはない。僕もいい加減歳をとるし、歳をとってきた。毎年365日事にやる一喜一憂も、いい加減飽きてきている。いっその事火星か、もっと遠い星へと移住すれば1年が長くなるために歳を取らないでいられると思うが、そうしない理由は百個ぐらいある。その中には浅慮のために科学的内容は含まれていないが。

 文章を書き連ねて、結局のところは憂鬱だとか退屈だとかのクリシェに至る。記事は最低でも千字は書こうという些細な意地のせいで、言わなくてもいいことを言い、言わなくてもいいことを言うために憂鬱になり、言わなくてもいいことを言ったために人に好かれない。こうした日々の無為な時間を、そうだと自覚しながら、少しでも前に進んでいると言い訳してやり過ごしている。前に進むためにしている全てのことは身につくこともなく、ただ猿に金を貸し付けているような気分になる。しかも金利の話までして。

 みんな猿に金を貸し付けているのかもしれない。その金は戻ってくることもあるのかもしれない。ただ、映画もアニメも酒も、いつの間にか猿の顔をして僕から去っていって、いい気分にして返してくれはしない。返ってきたと思ったら過払い金請求されて手元には何も残らない。それらは借りる時に猿の顔をしているのだろうか? 記憶の中では美しい顔をしていたような気がするのだが。

 

日記

 身体から死臭でも漂っているのか、単に部屋を清潔に保とうと思う気力がないためか、無数の小バエが部屋、そして身体の周りを飛び回っている。小バエ捕りを設置するものの、小バエは減ってはいるが消えてはいない。湯を沸かしてコーヒーをマグカップに注ぐ。溶けきらないコーヒーの粉が浮いているのか、マグカップの中に住んでいた小バエがお湯で溺死したのか、コーヒーの中でも見える黒い点が二、三個表面に漂っており、前者であること、後者だとしてもその小バエが子供を孕んでいないことを祈りながら胃に流し込む。

 部屋では、干したまではいいものの畳む気力がない衣類が乱雑に絡み合っていて、移動する時にはそれらを踏んでシワを増やしてしまうが、それもこうして文章を書いているとそうだなと認識する程度であって、気に病むほどではない。ゴミ袋もパンパンの状態で三つほど部屋に置かれていて、万年床となっている布団以外で寝っ転がることを妨害してくる。袋が布団の領域まで侵食して来る前に、ゴミを出すことが叶うといいが。

 薬のせいか、単に体調が優れないためか、今日は倦怠感に身体を支配されていた。血の代わりに鉛でも流れているのではなかろうか。もしそうなら指の先をギターの一弦の先でもって刺し、鉛を出そうとするだろうなと空想するが、それを実行に移すほどの気力は倦怠感に奪われてしまっている。ただ悪寒とむず痒さに耐えながら一時間を待つ。長針が同じ箇所に戻ってきたのを見てから煙草に火をつける。悪寒とむず痒さのため、冷房を付けることが出来ない。幸いに外は涼しくなってきている。夜、公園へ行くと名前も知らぬ秋の虫が秋を報せているほどだ。しかし、悪寒を和らげるために毛布を四枚と羽毛布団を一枚被っている。それが適した程の気温ではない。

 こんな体調で病院に行きたくなどないし、感染症のことも考えると行くべきではないのだが、体温は平常とさして変わりはないし、咳も喉の痛みもない。歩くごとに足の裏がぐずぐずと崩れていくような気持ち悪さを抱えながら、足を引きずり、アスファルトに身体を少しずつすり下ろされているような気分でようやく病院に辿り着く。待合では一時間も待たされる。むず痒さと便意を取り違え、何回もトイレに行くが大も小も出ない。季節柄、エアコンが強いわけでもないのにガタガタと震え、貧乏揺すりを繰り返す。

 やっとのことで診察を終える。診察では手足のむず痒さがいつ起こるかなどを聞かれ、一日中だと答えているのに、医師は不可解な顔をして同じ質問を繰り返す。根負けし、「午前中です」と嘘を答えると医師はほれ見ろとでも言いたげな顔で納得する。元気があれば何かしら言ってやろうとも思うだろうが、そんな考えはあまりの体調の悪さで、今書くまで一ミリも浮かぶことはなかった。むず痒くなかったら、この足の動きはなんなのだ。常にツーバスを踏むかの如く忙しなく上下する足の先は? 堪えきれず組み始め、何回も逆に組み直す脚は?

 まあ、何事も僕の言葉に説得力や想像を喚起させる力がないために定型の症状を宛てがわれているのだし、大体の患者にとって医療とはそういうものだし、定型には定型の良さがあって、悪さもあるというだけの話である。少しでも面白い文体を手に入れることが出来れば、例外を人に伝えたり、この感覚に新しい言葉が宛てがわれたりするのだろう。人に好かれることも可能だろうし。何にせよ、文体である。それはコミュニケートの言い換えでもある。ただ悪寒としか言い表せない悪寒と、むず痒さとしか言い表せないむず痒さに支配されている。深刻さを伝えるためには、全ての感覚を言葉で通じさせるためには、語彙力が必要なのだが、あまりの不快さに言葉は脳の端から逃げてしまう。健康な時には言い表す必要がなく、また、不健康な時には言葉がない。そんな言い訳でこの文章を締める。辛い。

日記

 クーラーからは埃や黴など体に良くない物質を延々顔に吹き付けられているのだろうと思い、夏の暑さがもう会うことはないと予期させる人のようにしおらしく、最後の印象だけは良いものにしようと顔を歪めて優しくなったのを境に、今更と思いながらも扇風機のスイッチを押した。毎度毎度ブログ記事に出てくる煙草と珈琲をのみ、毎度毎度ブログ記事にする。煙草のせいか珈琲のせいか、扇風機が開けっつらの腹に風を当ててくるせいか、そんなに食った覚えもないのだが糞が出る。こんなことばかり書いていては何にもならないということは書く前からわかり、糞みたいな内容をそれらしい言葉でコーティングしようとする気持ちすら湧き上がることはない。八月になったといつもの調子で言ったかと思えば八月にはブログを更新すらしておらず、かといってそれらしい季節に対する情感も特にない。

 夏に対する期待や情感をあと二ヶ月もなく二十七になる人間が持っていたら、それは過敏症である。人は喜びや悲しみは言うまでもなく、言葉にして表現出来ないような感情まで一緒くたにして既視感の箱に入れていくのだし、そうして簡単なことで針が振り切れないようにするのが成長なり加齢なり、まあ、それは経年変化というのが相応しい何かしらなのだ。

 夏の暑さは生命に対する危機感故に、見せる景色にぼんやりとした効果を与え、そのクラクラとした感覚を感傷に変えさせる。僕らが感傷のように思っているのは、単に身体の悲鳴だし、サウナだって身体の悲鳴を快楽と勘違いしている(か、単にマゾヒストかのどっちか)だけのように思える。ドラッグだって結局は身体的な経験でしょう。そういった唯物的な考えで感傷や感情の「感」の字を理解しようと思っているのだが、これが医学的に正しいのか、誤っているのかが気にかかる。神学的には間違っているだろうな。

 

 コンビニに煙草を買いに行く。店員の態度は時給九百円かそこら程度に相応しい態度だ。レジに向かえばレジから逃げ出す店員と、レジの小銭を入れたり出したりする作業を忙しそうにして無視する店員とで、仕事の押し付け合いが発生している。全ての生活の営みは、それ自体が当たり前に脅かされ続けているということを前提にすればなんだって愛おしい。これは先の大震災からのムードであり、それから十数年も経っているのでいい加減型落ちの思想なのだが、人は青年期のムードを簡単には捨てられない。

 カートン買いの無料ライターを投げられ、どうしてこうも嫌な思いをしてライター一つを貰ってへいこらしているのだろうねと思う。貰えなかった時は悲しいくせに、使い切ることもなく机の上に溜まっていくカートン買いの無料ライターをジェンガのように積み上げては、崩れてどれを使ったのかを忘れた。

日記

 朝起きると、時間が無限に引き伸ばされるような感覚に陥った。日射しはチリチリと光速で尾を引いて、枕元にようやく到達する。夜中は定期的に起きる。起きたのだからと冷蔵庫の明かりを手がかりに煙草に火を付ける。煙草は定期的に吸いたくなるが今は美味いと思うことはない。違う味違う味へと銘柄と味覚をサーフィンさせると、結局のところ今の銘柄が一番いいという、郷愁にも似た結論に至る。

 無限に引き伸ばされている時間の中で、ひとつの思いつきが抗い難い欲求によって何度も思い浮かぶのをかき消そうとする。市販薬で時間を体験にすり替えて、曖昧にしてしまいたいという欲求。眠たさとそれを綯い交ぜにしてやり過ごす。郷愁にも似た欲求とは、知識から体験への流れがあった上での、経験から知識への還元によるもののような気がする。知識は色褪せてしまうが、体験は常にフレッシュだ。そんなことを言っていると、朝枕元に降りる光の尾さえ、時間が高速で進む老人になった時に懐かしく思えてしまうだろう。だが正しい。

 廃墟やら人気のない街などすら人気になるように、シティポップという名の工業的ポップスの徒花もそうして人気になってから幾数年経つ。そういったブームは、僕の『若者の興味を惹くのは真新しいノスタルジーである』という意見を強く補強する一例のように思え嬉しいが、この話は本題に関係ない。なんとなくシティポップを聴く。ポップスの持つ空虚さはロックの持つパーソナリティを演技する性質とは大きく違い、あまりにも空虚で、未来に飛ばされて砂に埋もれたビルを見ている感覚にさせられる。冷笑家になれば空虚すらユニークだが、見せかけのパーソナリティに魅力を持つ文化で生きてきた為に冷笑家になることも叶わない。ただ今は構造だけが見えるためにデフォルメされたようにも思える過去の産物を聴いて悲しい気持ちになる。悲しみは僕らを凶暴にさせたり、虚脱に陥らせたりするけれども、それがアルコールの作用と何が違うのかというと口をつぐまざるを得ない。

 何にせよ、シガレッツアンドアルコールなのだ。それは郷愁と悲しみと言い換えることが出来る(それはほとんど同義なのだが)。欲求を体験にすり替え、体験が経験へと変わり、知識へと還元される。その流れが終わる度に僕は体験を求める。その欲求の中で、今日は運良く市販薬を飲んで尿道をおかしくしたり、ベンゾジアゼピンを飲んでやっぱり尿道をおかしくしたりせずに済んだ。なにか新しい体験をと思う。それは郷愁の欲求とは全く違う、未来には依存になる、今はまだ知識の段階の欲求のことだ。