反日常系

日常派

今年も日記を書き続ける

 あけましておめでとうございます。あけても特にすることはないし、冥土への一里塚を踏みしめているだけだと絵に描かれた一休宗純のような屁理屈をこねては、カレンダーの2022の文字を見て思ったよりも早いと思う。冥土への一里塚を辿ろうが辿らまいが、自殺はいつかなと思っているような人間にとってはかなり未来の寿命が近づいたことに惜しいと思う気持ちはない。冥土へのショートカットを知っているから、一里塚にかまっていられないのである。

 いつなのかは忘れたし、そもそも記憶していないが、年末に特に理由もなく手首を切った。薬を飲みすぎたせいのように思える。もう切り慣れているし、こんな書き慣れたことを書いても、このブログを読みなれた数名からすれば「またやってんのか」と注意も引かないだろうが、ブログなんてそんなものである。日記を盗み読みする快楽に溺れている読者に「ドラマが足りない」と文句を言われようとも、盗み見フェチに対する礼儀は見られていないかのように振る舞うことであり、カメラ目線でマスターベーションをすることではない。いつも通りを繰り返している。外科医にかかったはいいものの、面倒くさがりゆえ、新年を迎えてから一回も通院できていない。縫合糸が服に引っかかって肌が突っ張る。そもそも、そこまで深い傷でもないし、大事でもないのだ。何回も同じことを繰り返していると、自分の中でボーダーラインが引かれてきて、ここまでは大したことで、ここからはそうではないというような認識を持つようになる。以前は縫ったら大事だと思っていたのだが、結構(自分の中で)浅くても縫うは縫うのだとわかってから、何を大事と捉えればいいのかが分からなくなってしまった。

 最近の趣味はJ-Stageやciniiで精神科の学術雑誌を読み漁ることである。症例一つ一つが哀しくてかわいらしい。自分もそうであれば良いと思うが、ぼくは深淵を覗いているだけの、そして深淵に気に入られることもなく覗き返されているだけの人間なのだろう。今度精神科に行ったら物怖じすることなく、「先生、ぼくは病気なんかではなく、そして病気でさえないのだと思います」と言ってやりたい。なにか、言い訳のような言葉をその次に紡ぐことになってしまっても。「先生、ぼくは先生に否定してほしいのです。あなたは病気だとかまってもらいたいだけなのです」

 新年早々、暗いことを書いたが、もうメンヘラは一般化しているし許してほしい。メンヘラだろうがエモだろうが、言葉が生まれる時というのは特殊な範囲を言葉にする必要性が生じた時だ。一般とは特殊の対義語であって、一般化とはその言葉の寿命と同義だ。なのでメンヘラだからどう、エモだからこう、というのは今は全く意味を成さない。だから、わざわざメンヘラ性の言葉を連ねたこの記事に意味などない。ただ、意味がないので許してほしい。意味がないものに腹を立てることの方が難しいものだ。

 日記とはそもそも書いた当人、そして盗み見をしている当人にしか意味がないものだ。今年も意味のないことを書き続ける。視線を忘れてマスターベーションをすることもあるだろう。期待していただきたい。あけましておめでとうございます。